いこいこ
いこいこ
(生駒新一郎)
生まれも育ちも宮崎市です。
40歳を過ぎ少々低迷気味です。平成19年に父を亡くしたのですが、亡くなるまでの8年近く言葉を交わすことができませんでした。同じ家にいながら。母はその板挟みで心労もたえませんでした。
父とそういう関係に陥ったのは、私の仕事でした。
私は、高校卒業後、鹿児島の専門学校に2年行き、21歳でコンピューターの仕事に就きました。10年間機械の運用管理プログラム作成を行ってきたのですが、30歳になる頃にやっていることに違和感を覚えるようになりました。スピードと正確さを問われる世界にあって生身の人間の生々しさが感じられない状況がおかしく思えるようにありました。それは、私が、21歳よりつづけていた書の世界が背景にはったからです。ただ字をうまく書くだけでなく、それ以上に人間として良く生きることを常々教えられていたことがすこしずつ染み込み心の土台を作ってきた証でした。違和感を覚えて間もなくして会社を辞めました。
その後、2年ほど知的障害の方の施設で臨時職員として働きました。
その2年間で、自分の土台を作ってくれた書と福祉とを融合させたものはできないものか、と模索始めました。いろんな人に会い、本を読み、番組を観てとにかく追及しました。生きることを求め続けていたようにあります。そんな中、まさに求めていたものと出会いました。
障害者アート(こんな区別の言葉はいらないのですが、表記上あえて用います)をおこなっている作業所とのであいでした。ゆっくりだからできること、ゆっくりしかできないから見えること、それだから伝えられること、そんなことを作品を通して発信する場でした。ここだー、と思い、いろいろ収入確保の仕事を一方でしながら、そこにはボランティアとして係わりました。生活全般に介助が必要な彼らが、それぞれの手段で行う’表現’とその結果の’作品’に惹きつけられて行きました。係わりが深まるにつれ、身体的な不自由さ、社会的壁があればあるほど心から紡ぎだされる表現力は、自由闊達のように思えてきました。この道以外にないとはっきり言えるようになってきていました。5年ほど前から、現場スタッフとして彼らと常に一緒に進むようになりました。
しかし、決して、経済的な安定があるわけではありません。そのことで父が一番に私がすることにもろ手をあげて賛成でずにいました。何度か職を替えることを促されたこともありました。私は、ますますそのたびに自分の本気を確認することとなり、父との距離が結果的に深まっていきました。
陰ながら応援していた旨は母から聞いていましたが、なかなかやさしい言葉もかけられないまま時を過ごしてしまいました。後悔します。 しても始まらないですが。
今は、自分の道をしっかり歩むことを父に誓って一日一日を大事にして行く気持ちでいます。
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