2009年06月30日
ほどく
21時30分ごろの南西ににじむ月です。
今は、西の空に深く低くあります。
じとじととした梅雨の合間にのぞく輝きに、思わず惹かれました。
昨日、てんてんさんから経絡マッサージをしていただきましたが、オーバーかもしれませんが、受けるまでとは違い身体が信じられないくらい軽くなりました。
昨日から、今日とすっきりした体内を通る血液、酸素が全身に滞りなく行き渡るようで、思考の廻りも比較的、前向きに働いています。
思いました。
疲れた心身の状態が続くと、ちょっとやそっとじゃ変化が与えられず、考え行動を鈍らせる働きが連続しやすく、ますます疲労を蓄積しやすくなり、どうしようもない状態になることえを。
それから、疲れをためない、気持の持ち方、生活のリズムの確立も欠かせません。
2009年も6ヶ月が過ぎ、折り返し。
明日から、文月。、
2009年06月26日
鈍感 直感
6月26日
今日は、昨日よりはいくらか過ごしやすいひでした。
真夏日が日本各地で。
今、だいぶ欠けている月が西の空に淡くひっそりと輝いています。
ずいぶん久しぶりに空をみたような感覚。
気がつくと、目の前のことに翻弄されて、冷静に思考を働かせて大きな流れを掴み、的確な判断で行動へ移すことができなくなっています。
焦れば焦るほど、視野がどんどん下がってくるようで、余計に苦しくなります。
身体に何とも言えない重さが加わってくるようにあり、本当に苦しいですね。
マイナスに働くリズムで生活を繰り返していることも大きく影響しています。
その打開で思うのは、早起き、早寝、三食 運動 などを強い意志でやることです。
それに加えて、正直である、肯定する言葉を口にする、身体を温める、読書するも常に意識しておきたいことです。
夜が深まる空に、一点の目印のように細長い三日月の光が、心の余白を広げてくれたようでした。
2009年06月21日
お天道様
6月21日
夏至
父の日
父が逝って丸2年が経っちましたが、晩年の9年は、父と真正面から向き合うことを避け続けた日々でした。
父の寂しさ、もどかしさ、悔しさ 感じながらもただ、時を過ごすばかりでした。
その間の6月第三日曜日は何もすることなくいました。
今日は、弟家族と花を贈りました。
姿形はなくとも今、尚、感じる父の威厳。
一年で一番、太陽が長く在る日に 今更ながら、しみじみと感じずにはいられません。
夏至
父の日
父が逝って丸2年が経っちましたが、晩年の9年は、父と真正面から向き合うことを避け続けた日々でした。
父の寂しさ、もどかしさ、悔しさ 感じながらもただ、時を過ごすばかりでした。
その間の6月第三日曜日は何もすることなくいました。
今日は、弟家族と花を贈りました。
姿形はなくとも今、尚、感じる父の威厳。
一年で一番、太陽が長く在る日に 今更ながら、しみじみと感じずにはいられません。
2009年06月19日
歩みの中から
一昨日から
梅雨の空模様に。
稲も待ちに待った雨を喜んでいる だろう。
子供の教室を続けて、早くも10年目になりました。
子供が、将来、私の顔など忘れても書へのよき理解者として居てくれたら。
僅か1時間ではあるが、子供自身の心が自然に表現されるような安らげる場であれたら。
子供と向き合う時は一人間として、何時いかなる時でも通じる普遍的な真理を大事にする。
挨拶、靴並べ、道具の扱いなど、お互いにを認め合い、尊重しあいながら。
毎回とまではいかなくともそれに近い気持ちであれたら、そんな風にありました。
同じように見える時間を丁寧に作って継続することはそれだけでも労力のいるところですが、そんな、ささやかなことを確実に行っていくことが、大事なことではないか、とこれまでを振り返りおもうところです。
梅雨の空模様に。
稲も待ちに待った雨を喜んでいる だろう。
子供の教室を続けて、早くも10年目になりました。
子供が、将来、私の顔など忘れても書へのよき理解者として居てくれたら。
僅か1時間ではあるが、子供自身の心が自然に表現されるような安らげる場であれたら。
子供と向き合う時は一人間として、何時いかなる時でも通じる普遍的な真理を大事にする。
挨拶、靴並べ、道具の扱いなど、お互いにを認め合い、尊重しあいながら。
毎回とまではいかなくともそれに近い気持ちであれたら、そんな風にありました。
同じように見える時間を丁寧に作って継続することはそれだけでも労力のいるところですが、そんな、ささやかなことを確実に行っていくことが、大事なことではないか、とこれまでを振り返りおもうところです。
2009年06月15日
水の染み込み 吸い上げるチカラ
空梅雨の様相。
一日中晴天でしたが、田んぼは水不足で土がカラカラになりかけているような感じです。
久しぶりに訪れた山あいの母の里では、今が正に田植えの最中でした。日照りが続き作業もしんどいもようで、加えて、新芽をあさる鹿の対応の為に水田の周りに防護ネットを貼る作業もあり大変のようです。
写真は、ステーションの建物の僅かな隙間から茎と葉を元気に伸ばすイチジク(?)の姿です。
厳しい条件ながらも生きるために日光を求めて青青と茂る様は、無言で力を放っています。
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数日前の子供の教室。
新しく入ってきた小学2年生の女の子。最初は緊張した面もちで初めて手にする筆を動かしていました。
最初は大きく腕を動かすことを意識するために丸を大きく書き、次に文字に呼吸を送り込む基本となる横一の練習をして、最後に学年課題の4文字の揮毫へ。
丸をかく途中、横一を書く途中に、「すごいねー」 「いいねー」と少しだけ声を掛ける。
だんだんと勢いとテンポを自ら掴んで一心に筆を動かしていました。
帰り際に「習字たのしいー」 「習字すきー」と 。
素直な振る舞いに、ただただありがたく想った次第でした。
そして、こんな純粋な気持ちで好きになれたり、夢中になれたり、言葉にできたり、子供の持つ無垢な心に、感覚が鈍くなった自分の心を揺さぶられたようにありました。
。
2009年06月13日
物か作品か
6月13日
今日は、梅雨の晴れ間の一日でした。
やることを並べれば並べるほど思考が空回りするような状況が続き、過度に気持ちの乱れを起こすこともあるなど、ここ数日は落ち着かない状況でした。
今も、神経がぷるぷるしている感じもあり、心身を完全にリラックスさせることをしなければ・・・・・・。
写真は、10日前にグリーンベルトに植栽してある花を撮ったものです。
今日は、ステーションの行事で美術館にいきました。
そこで出会ったことば。
「内から発するものがあるかどうかで、出来上がった物が、作品かただの物かに分かれる」
「邪心を持って作られたものは、決して技術的に優れていても伝わってくるものが乏しい」
「反対に、技巧的で無くとも一心に作り上げたものは、訴えて来ものを感じることがある。」
これに類することは、これまでも聞いたり、思ったりすることはありましたが、混迷している我が身に久しぶりに生きる本質を感じさせていただきました。
人それぞれ、身体的、精神的、心理的、物理的に様々な状況にあります。
どんな状況になっても一日一日、一瞬一瞬、“心”をゆっくり丁寧に動かしていくことを何よりも大切にして在れたら、と思います。。
2009年06月07日
営みの灯り
昨日は、暑いくらいでした。
今日は、薄曇りの天気でした。
地区の清掃案内のマイク音に目覚めた朝でした。
新たなスタートの一週間を振り返り、基本、初心にもどり想いを具体化し、共有を図ることの難しさ、必要性を思うところでした。
写真は昨夜深夜のお月様。一身に注視されるところと反対の地上のいくつもの営みを反射される輝きに想うところでした。
2009年06月01日
少数派と多数派
今日から6月
少し汗ばむほどの陽気でした。
だんだんと日が高くなり
21日には、夏至を迎えるころとなりました。
自分の身にある数ヶ月続く慌しい状況。
心底決断をして進むこととしました。
少ない立場の意見、葛藤を伝え、その立場だからこそ見えることを出来得る限り社会に伝えていきたい。
制限があることは自由を強調する。
新たな気持ちで歩み始める今、改めて思うことです。
ここ数年、何か制限が課せられていることとと、本能的に表現をすることは比例するように感じられてきました。特に身体的なものでは顕著に思うところがありました。
キャンパスや紙の大きさが制限があることも、どうその空間を使うかを考えることになり、制約のなかでいかに自由闊達に動き回れるか。
そのときに、自由に動ける身とそうでないことではまた違いがあります。
身体が滑らかに動き、考えることが出来ればできるほど、奔放さを表出することは至難の業のようにあります。
決心をして歩むことになり、このことをしみじみ伝えていく必要性を感じて居ます。
このことを役目として。
しかし、少数派とされる視点、立場ばかりを誇張しすぎずに、あくまでも融和と共存を図れることをめざして、信念を持って続けて行きたいです。
ただ、今尚、偏見と差別は、見えないところにまだまだはびこって居ます。
そのためにも繋ぎの役として 在りたいです
水無月 みなづき 水の月